"血染めの桜"事件で非業の最期をとげた谷地城主「白鳥十郎」が残した足あとを探って

白鳥十郎と寺社

谷地について

谷地について

谷地(やち)は、現在の山形県村山地方にある地区で、現在の西村山郡河北町の中心地です。

谷地とはアイヌ語を語源とする単語で、湿地の状態をさす言葉のようです。

谷地の東側に最上川が、南側には寒河江川が流れており、川の増水時には何度となく水害が発生した土地です。

谷地は庄内に通じる街道や山形県北部の最上地方に続く街道、仙台方面に続く街道などに近く、交通の要所ともいえる場所に位置しています。

街道に加えて、最上川の舟運もあり、山形県内陸部では山形市と並ぶ商業地だったようです。

この谷地に城を築き、戦国時代、代々山形を治めていた最上氏と並ぶ力を持ったのが白鳥(しろとり)氏です。

谷地城は白鳥氏が滅ぼされたあと、最上氏の支配する城となりましたが、出羽の関ヶ原ともいわれる、最上氏と上杉氏との戦いのとき、下(しも)吉忠を大将とする上杉軍に占領されてしまいます。
関ヶ原での勝敗が最上氏や上杉氏に伝わり、上杉氏は山形領から撤退することになりました。しかし、上杉軍の撤退命令が谷地には届きませんでした。
谷地城は最上軍に取り囲まれてしまいました。
谷地城を占領していた上杉軍は谷地城に立て籠もることを余儀なくされてしまいます。

立て籠もる上杉軍は2千5百。
谷地城は長谷堂で上杉勢の直江軍と戦っていた最上勢が、大挙して谷地城に襲いかかり、城を取り囲んだそうです。
最上軍は谷地城を11日間あまり攻め続けます。

しかし、最上軍は城を武力で落とすことができませんでした。

谷地城がなかなか落ちなかった原因は、谷地城に入った上杉軍の下吉忠の武功も大きいのでしょうが、それに加えて、谷地城は平城でありながらも大変に堅牢な城だったことも幸いしたのでしょう。

現在に至って谷地城は残念ながら、三社宮の境内に土塁の一部しか残っていません。

商業地としても栄えた谷地。
谷地地内には市の場所を示す市神(いちがみ)の石碑が数多く残っています。
その数は県内でも屈指で、全国的にも珍しいようです。

谷地はかつて、最上紅(べにばな)の集散地だったことなどで、京都の文化がもたらされた町でもあります。
このことは日本四大舞楽の一つといわれる林家舞楽が谷地八幡宮に伝承されていること、町内に京都からもたらされた雛人形が現存することなどからうかがい知ることができます。

今でも、「十郎が討たれなければ・・・・」と最上家を快く思わない人も多い谷地。
白鳥家が谷地を治めた期間は短いにもかかわらず、討たれた白鳥十郎を敬う人が多いのも谷地の特徴です。

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