"血染めの桜"事件で非業の最期をとげた谷地城主「白鳥十郎」が残した足あとを探って

白鳥十郎と寺社

湯野沢熊野神社

湯野沢熊野神社

湯野沢熊野神社は、1207年、平友康が紀伊の熊野本宮より熊野大神を御分霊して建立したと伝えられています。
江戸時代に湯野沢地区を治めた新庄藩の祈願所として代々の新庄藩主の信仰が篤かった神社でもあります。

湯野沢熊野神社の拝殿

平友康は通称、熊野三郎といわれ、その子孫は代々この熊野三郎を襲名したようです。

白鳥家の側から書かれた史料として、天正最上軍記が残っていますが、その中の家臣団の中にも、

熊野三郎友重 湯ノ沢村館持家老ナり

と、熊野三郎の名が載っています。

湯野沢熊野神社は、かつての山楯である「熊野山楯」に建立されており、熊野山楯は熊野三郎の居城だった湯野沢館の「詰めの城」だったと考えられております。

熊野三郎こと、湯野沢の平氏はもともと白鳥家とは敵対していたようです。

南北朝時代、白鳥氏は寒河江大江氏同様に、後醍醐天皇側である南朝についていました。
湯野沢の平氏は最上家同様に、足利尊氏側である北朝側でした。

最上氏は現在の村山市大久保に最上氏の祖である斯波兼頼のひ孫を大窪氏として住まわせるなどしていたようです。最上義光の時代よりも数代前の話です。

白鳥十郎はこの大窪氏、また熊野三郎友重の父である師重を討ち、熊野氏の姫であった「おたえ」を内室として娶ることで友重を重臣に加えた、という伝承が湯野沢地区に残っています。

参考:「おたえ姫」について〜岩木阿弥陀堂

最上氏側についていた人物を討ち、村山市湯野沢地区や大久保地区を白鳥十郎が領地化した。
このことが最上家とのしこりの一つになった、とも考えられないでしょうか。

白鳥氏の配下に加わった熊野三郎友重は、白鳥十郎が山形城で誅殺されたとき、十郎とともに討ち取られた、と伝わっています。

このような伝承も残っています。


十郎が山形城に赴くとき、現在の河北町田井の最上川沿いで、飛んでいた鳥の糞が十郎に落ちてきました。

十郎に従って山形に向かっていた熊野三郎友重は、この様子を「不吉」と見て十郎に、山形に行くことを取りやめるように進言したのですが十郎は聞き入れませんでした。

このとき糞をした鳥は熊野神社の使いである「八咫烏(やたがらす)」だったそうです。


この伝承によると、谷地勢が山形に行くのに、田井で最上川を渡り、天童を通って行ったと考えられます。

何故、谷地勢は天童を通る道を選んだのでしょうか。

白鳥氏の歴史を知る上でも鍵となりえる熊野三郎。

今後、より一層、熊野三郎の一族のことが解明されることを望んでいます。


熊野神社の標柱

参道

標柱付近の一の鳥居をくぐり、杉林の中の参道を数十メートルほど進むと二の鳥居にたどり着きます。

二の鳥居の先の石段

二の鳥居から石段を登ります。
石段の脇には八幡大神や稲荷大神など、摂社が左右に並んでいます。

石段を登り上げると三の鳥居があり、拝殿につきます。

熊野神社の境内

拝殿のまわりには杉などの大木が多く残っています。

おくまんさまの大杉

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